おおきすぎるひとりごと。

すきなものをすきなだけ。

「生きているだけいい」の困難。人生の “志” について。

みなさん、こんにちは!

今年に入って留学用?トロント生活用?のツイッターアカウントを作りました。意外と留学界隈はツイッターが盛んなようです(今年やっと気が付いた)

@ajp_canada という非常に留学アカウントっぽいわかりやすいアカウント名でやっていますので、カナダにいる方も別にカナダにいない方もよかったらフォローしてください。気が付くと食べ物のことばっかり呟いています。

 

それはさておき、ちょっと薄暗いタイトルの記事です。ただ、昔からもやもや考えていることがあるので、頭の整理がてら書きまとめてみることにしました。そんなに暗い内容にはならないはず。多分。

 

 

「生きているだけでいい」とは?

悲しい事件があったときなど、ニュースのコメントやWeb、新聞のコラムなどでよく見かけますよね。

 

生きているだけでいい

生きることが尊い

 

もちろん、嘘を吐くつもりでこの言葉たちを使っている人はいないと思います。みなさん心からそう思っているんでしょう。私自身も、残酷な無差別殺人のニュースや、悲しい自殺の話などを聞くと、「なぜ命が奪われなければいけないのか」とやるせなく思うことがよくあります。

生き続けることを誰かに強制するつもりは全くないものの、命そのものの奇跡はとても尊いものです。

 

でも、命は尊いと思う一方で、ただ生きているだけでは生きづらいのが今の世の中だとも思ってしまいます。

それは経済的、身体的、精神的に自立しているかという話ではなく、”生きる理由”を求めすぎる社会にあるんじゃないかな、と。

 

生きるうえでの目的である”志”

”志”という言葉を使うのが一般的なのかどうかはわからないのですが、私は前職で働いていたとき、”志”という言葉をよく耳にしていました。

この”志”とは、”働く上での目標”ではなく、”人生をかけて達成したいこと”を意味しています。その会社では新入社員には必ず「あなたの”志”はなんですか?」と問いかけて、上司との面談では「まだまだ”志”が明確になっていない」「あなたのは”目標”であって”志”ではない」とフィードバックを受けることもありました。今思うと、”志をフィードバックする”なんて変な話です。十人十色のはずなのに。身バレしないといいな。

 

”志”という言葉を使うかどうかはともかく、特にビジネスにおいて、私たちは”生きる目的”や”生きる理由”を聞かれたり、それについての話を聞くことがあります。

Facebook創始者として有名なマーク・ザッカーバーグも、ハーバード大学卒業式のスピーチで「Sense of Purpose」(目的意識、とでも訳しましょうか)について話しているほどです。言葉は違えど、私がよく耳にしていた”志”とほぼ同じ意味で使っているのだと思います。

www.youtube.com

(このスピーチ自体は良いスピーチだと思うので、英語の勉強がてらぜひ)

 

「世界を良い方向に変えたい」「困っている人の手助けをしたい」

そういった気持ちをもとに、”自分が人生をかけて成し遂げたいこと”、つまりは”志”が明確になっている人のことは尊敬していますし、そういった人がきっと何かを変えていける力を持っているんだろうな、とも思います。それは素晴らしいことに違いありません。

でも、”志”を持たない人は、ダメな人なのでしょうか?

 

”志”を求められる息苦しさ

時々、世の中で”志”の押し付けが強すぎる、と思うことがあります。

特に私の場合は新卒で入った会社の環境が少し特殊で、部署移動の際に上司面談で「あなたの志は?」と聞かれ、自分が達成したいことを答えたら「それは志とは言えないからもっと考えたほうがいい」と言われたりするような会社でした。志を意識するということに疑問を覚え始めたのはそのころからだったように思います。

 

それ以来、面談では「志は見つかった?」というような話をされることが度々あり、そのたびに居心地が悪く感じていました。志について問われるたびに、まるで「志を持っていないと一人前に仕事をしていない」と思われているように感じていましたし、「志がないなんて私は意識が低くてダメなやつなのかもしれない」と思ってしまうこともありました。

でも同時に、「志って人から強制されて見つかるものなのだろうか?」という疑問が胸に合ったのも確かです。

 

仕事は時間で考えると人生の多くを占めることが多いものの、よくよく考えると仕事は人生のすべてではありません。世間を見渡せば、仕事は仕事と割り切って、趣味や特技に熱意を注いだり、むしろ何に熱意を注ぐわけでなくても穏やかに楽しく生きている方もたくさんいらっしゃいます。

生きて、生き続けていくためにはまずは自分を大切にするということが一番だと思っているのに、”志”の圧力を感じ続けるのは、むしろ不健康な気がするようになっていきました。

 

”志”や人生が人それぞれであるように、「”志”を持つかどうか」というのも人それぞれでいいのではないでしょうか。

 

今一度、「生きているだけでいい」を考える

ここで最初の「生きているだけでいい」に思考回路が戻ってきまして。

”志”を持つことを強制する、もしくは強制とまではいかなくても前提としている限り、「生きているだけでいい」という気持ちにはなれないと思います。常に何かを探していて、何かに追われている焦燥感がある方は私だけじゃないでしょうし、それにはこういった考え方の潮流があるように思います。

 

生きているだけでいいというのは、必要以上に他人に迷惑をかけ続けてそれを何とも思わないでも生きていればそれでいい、ということではさすがにありません。人と人の協力体制とそれに伴うルールで構成される社会の中で、あまりにも傍若無人にふるまうのは今回お話ししたかった「生きているだけでいい」の意味ではないです。

そうではないものの、”志”や”意識の高さ”に言及されがちななかで、志を持たない人生や生き方ももっと受け入れられていけばいいなあと思います。実際に私がカナダまで来た理由も、志とも大きな目標とも関係ない人生の選択をしたかったからでもありますしね。

そういった生き方を選んだとしても、妙な焦燥感や息苦しさを感じないようになるといいな、と。

 

なんだか唐突な記事になりましたが、ここ数年ずっと考えていることをシェアさせていただけて、同じように焦燥感や息苦しさを感じている人の気が少しでも楽になったらうれしいです。